山本梅逸(1783年11月14日-1856年2月7日)是江户时代后期的文人画家。出生于名古屋,是尾张南画的代表画家。本名亮,讳亲亮,字明卿。因为出生于卯年,所以通称“卯年吉”。画号为春园、竹严、梅佚,之后又称之为梅逸。别号有梅华道人、玉禅、天道外史、葵园、友竹草居、白梅居等。
生涯
在名古屋天道町(现在的中区大须),作为栏间的雕刻师山本有右卫门的孩子出生。据说这位父亲是尾张藩的组同心,也是藩士的佣人,但没有留下记录。父亲梅逸13岁时去世,生活穷困潦倒,但母亲却很注意孩子的教育,为梅逸做和歌的解题。从小就喜欢画画,在当地的画师山本兰亭学习。兰亭看穿梅逸的画才,让张月樵入门。在那之后,在尾张画坛的帕特伦,被誉为古书画收藏家的豪商神谷天游(永乐屋传右卫门)的庇护下,他接受了天游在理论方面的指导,并允许他临摹藏在家中的中国古画。在天游的基础上,他还遇到了作为一生盟友的7岁年长的中林竹洞。据说,他被带到天游的万松寺时,看(元时代)的《墨梅图》后深深地感受到了这一点,因此被授予了梅逸的称号。同样的,此时师兄竹洞也因为感受到了李逵的《竹石图》而被授予了这个称号。
享和2年(1802年),恩人天游病故后,与师友竹洞一同前往京都。大兴临摹寺院等地流传的明清古书画,购买明末文人杨文聪的山水画等,也倾心于书画的收集。两人为了寻求新天地而上京,但京都画坛的墙壁很厚,画业停滞不前,听到竹洞父亲病危的消息后,暂且回到了名古屋。天保3年(1832年)再次来到京都,之后作为画家被认可,为京都的文人社会所熟知。书画会的展品也越来越多,逐渐成为京阪的人气画家,年收入达到了200两。与赖山阳等交游,与煎茶也很亲近,这种茶被称为梅逸流。弘化元年(1844年),还绘制了装点煎茶会席的装饰图案集《清娱帖》,发行了以煎茶会图录为开端的《茗讌品目》(嘉永五序),对名古屋的煎茶普及也起到了一定的作用。而且还对笛子和陶艺感兴趣。
花卉草虫图 玉堂富贵图
游历日本各地,在江户与大洼诗佛交流。在尾张藩主的宅邸和谷文晁一起进行作画。天保元年(1830年),名古屋根据藩主的命令抄生了从朝鲜来的豹。除此之外,他还将脚伸向了山阳、四国、北陆。在京都作为画家呆了23年,安政元年(1854年),作为尾张藩御用画师被提拔,获得了御用人支配的地位。带刀,也被允许拜见,搬到御园町(现在的名古屋市中区)居住。享年七十五。法名为玉禅院天晟梅逸居士。被埋葬在京都慈眼寺和伊势山町洞仙寺(现在是千种区平和公园洞仙寺墓地)。
梅逸擅长山水画和花鸟画。其画风受到圆山四条派的写实性和装饰性的影响,从明清的古书画的研究中不陷入模仿中,独自构筑了纤细优美的画风,得到了很高的评价。另一方面,因为画得太多了,也有评论说像是被殴打了似的粗野的笔致很显眼。
主要作品
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 款記・印章 | 備考 |
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紅白梅図屏風 | 紙本銀地墨画 | 六曲一双 | 各163.3×344.0 | 島根県立美術館 | 1819年(文政2年)頃 | ||
文豹図 | 絹本著色 | 1幅 | 115.2×72.8 | 名古屋市博物館 | 1830年(文政13年) | 款記「文政庚寅夏五月 梅逸山本亮寫」 | 奥田鶯谷賛。梅逸による同様の豹図は他にも知られているが、その中でも出来栄えが良い[10]。 |
嵐山高雄図屏風 | 紙本金地著色 | 六曲一双 | ファインバーグコレクション | 1832年(天保3年) | 嵐山図:款記「壬辰仲春 梅逸山本亮寫」・高雄図:款記「天保三年夏四月寫於書帯草堂 梅逸亮」[11] | ||
墨梅図 | 絹本墨画 | 1幅 | 147.3×167.6 | ボストン美術館 | 1834年(天保5年) | 款記「甲午秋九月 梅逸亮寫」 | |
Plums, Bamboo, and Orchid | 絹本墨画 | 1幅 | 172.4×79.0 | クリーブランド美術館 | 1834年(天保5年) | ||
百花鳥虫図 | 絹本著色 | 1幅 | 131.3×57.3 | 静岡県立美術館 | 1836年(天保7年) | ||
陸羽煎茶図 | 絹本著色 | 1幅 | 滋賀県立琵琶湖文化館 | 1836年(天保7年) | |||
青緑桃源図 | 絹本著色 | 1幅 | 埼玉・遠山記念館 | 1838年(天保9年) | |||
四君子図風 | 紙本墨画 | 1幅 | 171.7×82.7 | 大和文華館 | 1839年(天保10年) | ||
花鳥図屏風 | 紙本墨画淡彩 | 四曲一双 | 林原美術館 | 1841年(天保12年) | |||
四季草花図屏風 | 六曲一双 | ギッターコレクション | 天保年間後期 | 右隻:款記「梅逸寫」右隻:款記「梅逸」/各隻に「梅華逸人」朱文方印 | |||
浪華帖 | 紙本墨画淡彩 | 1帖10図 | 各19.8×18.5 | ハンブルク工芸美術館 | 1844年(弘化元年) | 款記「亮」/「山本」「亮印」朱白文連印・「玉禅」白文瓢印・「某佚」 | 跋文により同年梅逸が須磨・明石を遊歴して描いた[12]。 |
花鳥図屏風 | 紙本墨画淡彩 | 六曲一双 | 出光美術館 | 1845年(弘化2年) | |||
四季花鳥図屏風 | 紙本著色 | 六曲一双 | 173.5×374.2 | 名古屋市博物館 | 1847年(弘化4年) | 愛知県指定文化財 | |
四季花鳥図 | 紙本著色 | 六曲一双 | ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館 | 1847年(弘化4年) | |||
木芙蓉双鴨図 | 絹本著色 | 1幅 | 152.5×74.5 | 個人 | 1850年(嘉永3年) | 山形県指定文化財 | |
畳泉密竹図 | 絖本墨画 | 1幅 | 129.7×51.2 | 名古屋市博物館 | 1844-54年頃 | 重要美術品 | |
四季山水図 | 絹本著色 | 4幅 | 各130.3×56.7 | 千葉市美術館 | 1852年(嘉永5年) | ||
八松双鷹図 | 1幅 | 129.1×56.5 | 東京国立博物館 | 1852年(嘉永5年) | |||
董法山水図 | 紙本淡彩 | 1幅 | ミネアポリス美術館(クラーク日本美術・文化研究センター旧蔵) | 1853年(嘉永6年) | 右上に漢詩「尽日柴門に客の過ぐる無く 雨余の苔径緑なること羅の如し 山禽睡りを呼びて春幽寂びたり 満院の斜陽竹影多し」[13] | ||
四君子図屏風 | 紙本銀地墨画 | 六曲一双 | 森村記念館 | ||||
玉堂富貴図 | 絹本著色 | 1幅 | 164.0×186.0 | ボストン美術館 | 款記「玉堂富貴 梅逸寫」 | ||
歳寒三友図屏風 | 紙本墨画 | 六曲一双 | ミネアポリス美術館(クラーク日本美術・文化研究センター旧蔵)[13] | ||||
群舞図 | 絹本著色 | 1巻 | 20.8×142.3 | クリーブランド美術館[14] | |||
Geese, Reeds, and Water | 紙本墨画淡彩 | 六曲一双 | 169.0×350.5 | クリーブランド美術館 |