小林次郎•赤诚

小林次郎(1891年8月13日-1967年7月2日)是日本的官僚。贵族院书记官长、贵族院敕选议员、参议院事务总长。

来历

成长

1891年出生于长野县上水内郡高冈村(现在的饭纲町),父亲是小学教师小林赖利,母亲时代的次子。当时,小林家把一部分房屋租给了高冈村公所,所以次郎是“村公所出生的孩子”。次郎在高冈寻常小学(饭纲町立牟礼小学)上学的9岁时,父亲赖利就任校长,因此也成为了“村里校长的孩子”。从城山寻常高等小学(长野市立城山小学)升入旧制长野中学(长野县长野高等学校)。一年的前辈有青木一男(大藏大臣),一年的后辈有栗林忠道(陆军大将)。1910年在父亲的朋友户隐神社宫司上井荣雄(鹿儿岛出身)的劝说下,进入旧制第七高等学校学习。在七高时代,目睹了萨摩阀为后进提供厚实的育英事业,痛感作为长野县人的孤独,告诫同乡的后辈不要走错道路,同时也寄来了旨在促进长野县人团结的新闻报道[3]。1914年考入东京帝国大学法学部,1916年通过高等文官考试。次年3月从东京帝国大学毕业,被任命为司法官候补。

从内务省到贵族院

1917年10月同样是长野县人,在内务省出身的贵族院议员伊泽多喜男的知遇下进入内务省[4]。成为冲绳县属,经过那霸警察署长、县产业课长,1918年成为县警视,1919年成为县理事官。据说在冲绳的3年间,他与当地的青年们意气相投,致力于改变旧习惯的运动,并展开将那霸作为自由贸易港的主张等。

1921年1月转任贵族院书记官,门卫长。11月,速记课长兼议事科兼总务科书记官。1921年作为出席第7届万国议员商事会议(里斯本)的伊泽多喜男等贵族院议员的随员去欧美(3月25日从横滨港出发,在美国旧金山-纽约-英国伦敦-欧洲各地停留10月回国)出差。之后,30岁~40岁的人经历了3次欧洲、5次中国大陆、去南洋诸岛、菲律宾等世界各国长期出差,培养了国际性的广阔视野。

1922年关东大地震后的临时震灾救护事务局事务官,1933年兼任行政法院评比官。1938年就任议事课长兼总务科长兼委员课书记官兼警务课书记官,1940年12月4日继濑古保次之后就任第9代贵族院书记官长。

战時贵族院长

据说,书记官时代小林的议会运营在各派谈判会等场合,一边戴着议长和书记官长的“一人分饰两角”,一边进行代办,另一方面作为事务局的局长,巧妙地区分了规则和先例这两个立场。另外,议会根据规定不允许旁听,众议院只允许新闻记者进入,贵族院按照规定进行。据说二战结束后小林也决不承认这一点。

1941年12月6日太平洋战争开战之日,上午4点左右东条英机总理大臣打来电话说:“希望早上5点和大木众议院书记长官一起到首相官邸的日本之间来。”见面的东条在紧张中也带着放心的表情说:“顺利进行了。”据说在命令小林和大树准备临时议会召集之后,在场的星野内阁书记官长、森山内阁法制局局长和大树、小林、东条五人干杯。[8]。

小林对东条内阁的战争实行方针持批判态度。小林的书记官长室里不断有有力的议员来,说:“乱来的战争是赢不了的。”“真是岂有此理。”让在重光葵外相手下担任和平的外交官加濑俊一兼任贵族院书记官,作为部下从事工作。加濑评价战后小林是“忧国赤诚达见的人物,暗中帮助我们”。

另外,小林自己在公用车内发言说“这场战争会失败”,司机说“大家都说要战胜战争,这是怎么回事?”然后就辞职了。有这样一个轶闻,他向二战结束后再次见到的原司机道歉,被问到“如果知道会输的话,为什么那个时候你没有当上总理大臣呢?”。

战争时期的贵族院的议院和各种调查会的速记录,据说为了保全被保存在离家乡很近的长野市善光寺的骨灰堂。

1945年5月24日凌晨的空袭中,距离议事堂最近的贵族院书记官官舍也被M69烧夷弹击中。幸而灭火成功,小林于第二天25日早上因为有事回长野探亲,但同一天晚上再次空袭,政府大楼全部烧毁。

战争结束后,参加投降签字仪式的重光葵全权代表加濑俊一随行,虽然在战争中烧毁了礼服所需的礼帽,但还是带着小林次郎借给他的东西出席了仪式。在有名的战舰密苏里舰上的签字仪式的影像中,伴随着重光的加濑拿着小林的礼帽。在典礼结束后的记者招待会结束后,加濑看到一位美国记者把巧克力放在了这顶帽子里,深深地感受到战争结束后和平的到来。

不久,驻军一来,女议会职员都开始逃跑了,但是小林说“不奇怪,大家都给我滚回去”,另外,在驻军夺取了站在通行口的太阳旗的事件发生的时候,也让她提出抗议被评价为严格且古板的人。

大日本帝国宪法改正与日本宪法制定的关系

在1945年10月25日根据GHQ的宪法修改要求政府设置的宪法问题调查委员会中,至少在10月30日小委员会之前成为追加的委员[16]。同年12月22日,在该委员会总会上提出了“大日本帝国宪法修正试行方案(小林委员试行方案)”。其内容以“大日本帝国宪法无需修改之必要”为前提,但在不得不修改的情况下,提议将贵族院改名为公议院,议员不是公选而是天皇敕任等

在此期间的11月24日,小林被任命为贵族院书记官长,并被任命为贵族院议员。现任秘书长兼议员的只有第一代的金子坚太郎和最后的小林。

1946年1月之前宪法问题调查委员会总结的宪法修改纲要所谓的“松本试行案”因GHQ不充分而被拒绝,2月13日GHQ提出的麦克阿瑟草案的宪法修改案之后被审议。

在贵族院的审议中,对于GHQ根据远东委员会的意向要求追加插入的“国务大臣必须是civilians(现在不是军人)”这一规定,将civilians造语为“文民”并插入条文中进行了修改当时的小林理解到英语的Civilians中也包含着退役军人,他认为“这样一来,即使是去战争的年轻原军人,也打开了将来能参加政治的道路”。

11月3日日本国宪法公布,贵族院被废止,新设立了参议院,1947年4月小林担任参议院开设准备委员长,5月2日辞去贵族院书记官长一职。

初代参議院事務総長

1947年5月3日日本国憲法施行に伴い5月20日招集された第1回国会特別会第1日目において仮事務総長として仮議長をつとめ議長・副議長選出選挙を進行。翌21日に行われた事務総長選挙で当選し初代の参議院事務総長に選出された[20]。

参議院事務総長時代の小林は、各派交渉会などで貴族院式の議長と書記官長の一人二役的な議会運営手法を踏襲したが、社会党など革新系から反発をうけたことがあったという[21]。

1949年9月参議院事務総長を辞任。理由は翌年の第2回参議院議員選挙に出馬するためである[22]が、小林本人が参議院の議会運営に限界を感じた[† 2]ものであり、周囲も小林が”合わなくなった”と見ていたのであった[† 3]。

いずれにせよ小林は貴族院書記官長から参議院事務総長まで戦前、戦中、戦後の議会事務局の長を通算8年9か月あまり務め、2020年現在でも国会議事堂の事務総長席に最も長く座を占めた人物である。

幻の初代公選長野県知事選出馬

参議院開設準備委員長在任中の1947年4月5日に実施された初回の公選長野県知事選挙では、保守陣営で小林次郎を擁立する動きがあった。保守系の有力者が軒並み公職追放で出馬不能のため、自由・進歩党両党では自由党は現職の物部薫郎(岡山県出身)を推したが、進歩党は「初代民選知事は長野県人」という意向から小林を第一候補とし第二候補を物部とした。当時小林を支持したものは「北信の某財閥(実業家で枢密顧問官の小坂順造)と、是れに関連する一群の人々」で、その背後には植原悦二郎内相があるといわれ、郡山義夫元知事や木内四郎などが頻繁に来県していたという。1947年2月18日両党県会議員による通称「やぶ会談」で両論はぶつかり、結局物部案に一致した[23]が、小林を推す小坂は、物部を退却させる選挙戦術や中央での政治工作を枢密顧問官伊沢多喜男に求めた。しかし伊沢は小林の知事選には静観の構えで、それどころか会合の主催者の一人として自身の名前が使われたことを知って激怒し、小坂は行き違いを詫びた。これも一因となってか結局小林の出馬は見送られた[24]。

この第1回長野県知事公選は結局保守陣営の物部と民主陣営の社会党林虎雄の一騎打ちとなり林が当選した。林によると当初小林は社会党の応援を得ての出馬を考え、直接林に支援を要請したが、林が社会党への入党を条件として提示したことに小林が難色を示し、調整は不調に終わったという[25]。 なお1951年第2回長野県知事選挙でも再選を目指す林に対抗する保守陣営の候補として小林の名が出たが擁立は実現しなかった[26]。

憲法研究と改正への熱意

1950年5月第2回参議院議員選挙の全国区に自由党から出馬する。参議院事務総長退官後は「二年半の(参議院事務総長)体験に徹し、日本国憲法の精神が国民の間に理解されて居ないことが判ったので、日本民族将来のため、余生を国民の政治教育に捧げようと決心」していたが、周囲の勧めがあり議員選挙へ出馬したという[27]。所属政党については、小林が貴族院議員に勅選された当時の内閣書記官次田大三郎から社会党入党を勧告されていたが、親任官待遇を賜ったとき(1946年12月5日)の首相吉田茂の誘いがあり自由党を選んだという[28]。しかし小林の意気込みに反して選挙の実際は金と違反がまかり通る世界[† 4]。であった。そのうえ党本部の支援も不十分で、小林は11万票余りの得票で落選。小林はこのままでは選挙法を改正しないかぎり良識的な候補者を苦しめるだけであると憤慨している[29]。

ついで1953年4月第3回参議院選挙に長野県区から出馬して落選した。国政参加への再度の挑戦の背景には、日本国憲法の制定に関与した者の一人として、その内容の不十分を国政の場で自ら提起し、正してゆきたいという強い思いがあったからであった。2回目の落選のあと小林を世話人として主に旧貴族院で日本国憲法制定に関与した勅選および学士院会員議員の有志を集め憲法問題を研究する「月曜会」を発足。毎月第一・第三月曜に例会日とし、河井彌八参議院議長の協力を得て議長公邸を会場とし参議院の速記者と罫紙を使用した半公式的な性格の研究会として活動した[30]。 研究会はa)日本国憲法制定の経緯の記録、b)日本国憲法の解釈論(問題点の検討)、c)改正案の作成の3点を主たる目的とし、政党の意見や世論を超越して健全な改正案を将来の参考のために残そうとするものであった。

1956年7月第4回参議院議員選挙全国区で三たび出馬するが落選。同時に河井彌八も落選したことで参議院議長としての河井の支援を期待することが出来なくなったことから、月曜会で従来のように参議院の速記者を使用することや、議長公邸を使用したりすることが困難になった。そこで1958年3月10日「月曜会」を改組して「萍憲法研究会」とし、その初回にそれまで検討された内容を「日本国憲法萍研究会草案」(実態は小林による試案)としてまとめた。萍憲法研究会は1959年10月ころまでは活動したが、主要参加者が次第に死去するなどして自然消滅した。なおこの月曜会・萍憲法研究会の活動速記録は日本国憲法の制定過程の裏側がわかる貴重な資料であり、2010年に参議院の保管棚から偶然発見され、2014年に翻刻、公刊された[31]。

郷里の後進を支援

晩年は郷里長野県出身の後進への支援に熱心であった。戦後焼け野原になった東京での就学環境は劣悪で特に住宅不足が社会的問題であった。そこで長野県出身者で東京に就学する学生への支援を目的として、県出身子弟の陸海軍将校育成支援機関だった「信武会」を解消し、その財産を基礎として1947年12月財団法人信濃育英会を設立。小林は常務理事に就任した。同会の主要事業は県人寮「信濃学寮」の運営であったが、入寮者が確保できず経営は不安定で、小林は長野県政財界の間を奔走し協力を求めた。1951年副理事長、1957年理事長に就任。同年に小平市の自宅敷地のうち600坪を育英会に譲渡し、鉄筋コンクリート3階建、洋室50室、学生100人収容の「小平寮」を建設。その運営にあたった[32]。こうした育英活動への尽力は、みずからが鹿児島の第七高等学校時代に体験した、中央の薩摩閥から郷党への支援の手厚さが影響したとも考えられる。