圆山应震•浪石白鹰图

圆山应震(1790年4月14日-1838年9月21日)或天保11年(1840年)是活跃在江户时代后期的画家。圆山应举开始的圆山派的第三代。幼名为辰三郎或辰五郎,通称主马之助、主水。字中(仲)恭,别号百里,星聚馆,方壶子等。

略传

出生于圆山应举的次子木下应受之子,后来成为伯父圆山应瑞的养子。姐姐住在室町东入。据说他曾在祗园祭郭巨山送别会上写过《唐山水仙人图缀织》(文化13年(1816年)和月车水引《双鸾灵兽图刺绣》(天保6年(1835年)的画稿。画域广,擅长人物、山水、花鸟,但另一方面也指出了粉本主义的弊病。

墓地是与应举和应瑞相同的悟真寺。应震无子,收养圆山应立为第四代养子。弟子有应震的妹妹国井应文等。

作品[編集]

作品名技法形状・員数寸法(縦x横cm)所有者年代款記・印章備考
琵琶湖図絹本著色1幅滋賀県立琵琶湖文化館1824年(文政7年)落款「甲申仲春寫 応震」/「應震之印」白文方印朝鮮人街道に入る手前、石場辺りを通行する朝鮮通信使一行を描く。通信使が最後に江戸へ向かったのは明和元年(1764年)で、先行する図様を写したものだと推測される[1][2]
駱駝図絹本著食1幅125.5×54.6心遠館1824年(文政7年)款記「文政七年甲申暮秋 應震真寫」/「應震」白文方印[3]
秋穫図紙本淡彩襖4面宝鏡寺1830年(天保元年)頃御座の間障壁画で、同じく襖4面の「挿秧図」と対。
龍虎図絹本墨画双幅京都国立博物館落款「應震」/「應震」白文方印
四季耕作図屏風紙本著色六曲一双大聖寺 (京都市)款記「応震」/「応震」白文長方印
蘭亭曲水図屏風紙本著色金砂子六曲一双城南宮款記「主馬助応震」城南宮には他に、奥座敷床の間脇袋戸棚小襖にも応震の絵が描かれているという。
梅花双鶴・引雛鶴図双幅随心院
花鳥図双幅121.0×57.4個人各幅に款記「応震」/印文不明白文方印[4]
本居宣長紙本著色1幅96.3×30.0本居宣長記念館無款本居大平[5]
賀茂真淵像紙本著色1幅106.5×29.7本居宣長記念館無款伝応震。本作品と寸法の異なる応震画賀茂真淵像が箱だけ発見されており、応震が複数の真淵像を描いていた可能性がある[6]
源義家絹本著色1幅105.7×40.0長浜城歴史博物館[7]
茶三聖図絹本著色1幅豊中市東光院款記「應需 応震」/「應需」朱文方印・「百里」白文方印[8]
孔雀・雲龍図紙本著色衝立1基両面139.7×96.0(各)石川県七尾美術館(池田コレクション)[9]
秋海棠山藤図屏風絹本著色二曲一双40.0×76.4(各)鳥取県立博物館[10]
麦稲図紙本金地著色六曲一双156.6×361.6(各)心遠館両隻とも款記「應震」/「應震」白文方印
鯉図絹本墨画淡彩1幅181.0×49.2ロサンゼルス・カウンティ美術館
Children Playing in Summer and Winter紙本著色六曲一双82×262.1メトロポリタン美術館
Lady And Attendant絹本著色1幅116.0×51.0ボストン美術館
唐美人図絹本著色1幅ブルックリン美術館
嵐山・男山図絹本著色双幅112.0×45.9(各)大英博物館
鍾馗文使図絹本著色1幅120.4×54.3プーシキン美術館款記「応震」[11]