大原重德•其本乱而末治者否矣

大原重德(1801年11月21日-1879年4月1日)是江户时代后期到明治时期的公卿。权中纳言·大原重尹的五男。官位为从二位、权中纳言、赠正二位。

经历

享和元年(1801年)在京都诞生。文化6年(1809年)成为光格天皇的孩子,文化12年(1815年)升宫,被孝明天皇重用。

安政5年(1858年),老中堀田正睦为了签订日美修好通商条约而请求敕许,上洛后,与岩仓具视等人反对而被禁闭。文久2年(1862年),萨摩藩的岛津久光率领藩兵为了献策而上洛,被赦免的重德在岩仓的推荐下作为敕使被萨摩藩兵警备前往江户。在江户,以萨摩的军事压力为背景,将攘夷的决定、一桥庆喜(德川庆喜)任命为将军后见职、前福井藩主松平春岳任命为政事总裁职,以及两人的幕政参加逼迫老中的板仓胜静和胁坂安宅等人,让他们喝下了这个(文久的改革)。

回到京都担任国事御用等。第二年,同样向朝廷献策的长州藩的萨摩藩批判内容的敕书被篡改后被问罪辞职。元治元年(1864年)被赦免,庆应2年(1866年)试图驱逐亲幕派的中川宫和二条齐敬等人,但失败后被幽门。

后来被允许,明治元年(1868年)进入从二位·权中纳言,担任参与·议定等新政府的职务,明治12年(1879年)去世,享年79岁。同年4月3日,赠正二位。

官职及职位等的履历

  • 文化2年(1805年)4月7日、従五位下に叙位。
  • 文化12年(1815年)12月19日 元服し、昇殿を聴され、従五位上に昇叙、大和権介に任官。
  • 文化15年(1818年)1月22日、正五位下に昇叙、大和権介如元。
  • 文政3年(1820年)3月19日、左馬頭に転任。
  • 文政4年(1821年)1月22日、従四位下に昇叙、左馬頭如元。
  • 文政7年(1824年)1月12日、従四位上に昇叙、左馬頭如元。
  • 文政9年(1826年)8月30日、侍従を兼任。
  • 文政13年(1830年)
    • 4月8日、右近衛権少将に転任、左馬頭如元。
    • 改元して天保元年12月19日 院(光格上皇)別当を兼帯。
  • 天保2年(1831年)
    • 9月20日 右近衛権中将に転任、左馬頭如元。
    • 12月19日、従三位に昇叙、散三位となる。
  • 天保6年(1835年)4月23日、正三位に昇叙。
  • 文久2年(1862年)
    • 5月9日、左衛門督に任官。
    • 12月9日、朝廷内に国事御用掛を設置するに伴い兼帯。
  • 文久3年(1863年)2月23日、蟄居落餝。これに伴い、国事御用掛を解職。
  • 文久4年(1864年)1月9日、還俗し、正三位に復位。
  • 慶応3年(1867年)
    • 9月27日、参議に補任。
    • 10月23日、従二位に昇叙し、参議如元。
  • 慶応4年(1868年)
    • 2月20日、明治政府(以下この年のみ政府を付す)参与に就任。
    • 3月20日、権中納言に転任。
    • 4月15日、政府笠松裁判所総督を兼任。
    • 4月25日、笠松裁判所総督を辞す。
    • 閏4月21日、政府参与を辞す。
    • 閏4月23日、政府刑法官知事に就任。
  • 明治2年(1869年)
    • 4月25日、刑法官知事を辞す。
    • 5月2日、議政官たる上局議定に就任。
    • 5月15日、上局議長に就任(前任者は山内豊信)。
    • 7月9日、上局議長を辞す。
    • 9月4日、集議院(上局)長官に就任。
  • 明治3年(1870年)閏10月17日、集議院(上局)長官を辞し、麝香間祗候となる。
  • 明治6年(1873年)1月17日、隠居[1]
  • 明治12年(1879年)4月1日、薨去。享年79。同月3日、贈正二位。

出自两汉《大学》的《大学之道》
其本乱而末治者,否矣。
其所厚者薄,而其所薄者厚,
未之有也。此谓知本,此谓知之至也。