吉田公均•香山夜读图

吉田公均(1804年-1876年)是江户时代后期到明治时代初期的四条派画家。通称平吉、嘉十郎。字是平吉或君平。40多岁以前的号是广均,别号有田均、栖霞、江上渔夫。

经历

出生于越中国新川郡江上村(现富山县中新川郡上市町江上),世世代代是当地豪农的父亲真四郎的三儿子。从小喜欢绘画,向纪广成(山胁东晖)学习。文政13年(1830年)27岁时被刊登在《平安人物志》上,最近被公认为独当一面的画家。广成去世后,向贯名靛翁学习文人画,之后再次师从四条派的松村景文。1855年(安政2年)京都御所重建时,在学问所的杉户画了“春秋花车图”“松鹰图”。据说明治维新后搬到了东京,但据说他回到京都去世了。73岁去世,墓在家乡上市町的净誓寺。子孙中有以《战舰大和之临终》而闻名的小说家吉田满。

作品总的来说以细腻的笔触和华丽的色彩为特色,擅长花鸟山水画。虽然理由不明,但好像经常去大圣寺,留下了多部作品。

作品

作品名技法形状・員数寸法(縦x横cm)所有者・所在年代落款・印章備考
老松図紙本著色金砂子六曲七隻170×350.8(各)南砺市城端別院善徳寺款記「田廣均」/「筆楽造作」白文方印・「田廣均字□□号江上逸史」朱文方印毎年、虫干法会で寺宝の一部を公開。松の巨木が左右一杯に枝を広げる様子を、六曲七隻の大画面に雄渾な筆致で描く。一説にこの絵は藩命により富山市水橋にあった巨松を写したもので、中田清兵衛が拝領し昭和40年に(1965年)に同家から善徳寺に寄進されたという。
高僧図南砺市城端別院善徳寺毎年、虫干法会で寺宝の一部を公開
高士観瀑図紙本淡彩襖4面168.5×91.5(各)東楽寺(豊岡市)款記「公均」/白文方印・朱文方印[4]当初から東楽寺にあったものではなく、戦後近くに旧家から移されたもの。
恵比寿図氷見
四季の草花天井加賀市江沼神社公均の間
十六羅漢の図著色1幅個人上市町指定文化財
十六羅漢の図白描1幅個人上市町指定文化財
彷陳円裏の図[5]著色129×51富山県
金碧西園雅集図絹本著色1幅146.0×58.0富山市郷土博物館1840年(天保11年)
作品名不詳絹本墨画淡彩1幅110.0×32.0富山県水墨美術館1841年(天保12年)山水画。貫名菘翁賛
灘浦八勝紙本墨画墨書八曲一双138.0×51.5 160.0×432.0氷見市立博物館1845年(弘化2年)
田園四季農耕図絵馬絵馬1面131.0×221.0菅生石部神社1846年(弘化3年)
春秋花車図板地著色2面(各)175.0×79.0宮内庁京都事務所1855年(安政元年)京都御所御学問所 北御縁座敷東方杉戸絵(西)所在
松鷹図板地著色2面175.0×79.0(各)宮内庁京都事務所1855年(安政元年)京都御所御学問所 北御縁座敷東方杉戸絵(東)所在
花鳥図屏風著色六曲一双押絵貼富山市佐藤記念美術館1862年(文久元年)
東坡琴操図絹本著色1幅130.3×51.9富山県1862年(文久元年)
梅溪山水図絹本著色1幅131.5×57法人1862年(文久元年)[6]
高士四季花鳥図屏風富山市佐藤記念美術館1865年(慶応元年)
四季の図絹本著色4幅131.2×52.3(各)個人1865年(慶応元年)上市町指定文化財
高士雅遊図絹本著色1幅142.0×74.2富山市佐藤記念美術館1865年(慶応元年)
春山仙院図富山市佐藤記念美術館1874年(明治7年)款記「時歳七十一公均」
農耕養蚕図絹本著色双幅1874年(明治7年)
花鳥図紙本金地墨画六曲一双個人(大阪市立美術館寄託)不詳
白鷹花卉図紙本著色額1面177.3×381.5個人不詳[6]