高久隆古•消闲图

高久隆古(1810年-1858年10月2日)是江户时代后期的画家。复古大和画派。本姓川胜。讳隆恒,字谓而。通称斧四郎。号除了隆古之外还有梅斋等。称为高隆古、泰隆古。出生于武藏埼玉郡忍城下(现埼玉县行田市)。

略历

出生于世世代代继承阿部家家老职的名门川胜家的四子。文政6年(1823年),阿部家从忍藩移封到白河,随之而来的一家也移居到了白河。

隆古的父亲川胜隆任40岁隐居,玩和歌、书画等文雅,哥哥们也同样擅长和歌和书法。隆古在这样的环境中长大,年轻时就立志成为一名画家。因为隆古不太擅长士道,所以父母半怒半怒地来到江户。得到乡土画家蒲生罗汉的介绍,拜师南画家依田竹谷。

天保3年(1832年)左右,因复古大和绘派的田中讷言而私淑登上京都,讷言已经去世,师从其门人浮田一蕙。临摹古寺社流传的古画和雕刻,热心研究。天保7年(1836年)在名古屋游历,向画人渡边清学习。最近的作品除了《隆古》以外,还有《小野四郎》的落款。

天保9年(1838年),回到江户。这个时候父母的猜想好像已经被解开了。得到富商书画收藏家菊池淡雅的知遇,得到了各种各样的支援。天保14年(1843年),谷文晁的高弟高久霭厓在没有嗣子的情况下猝死。也有淡雅的推荐,成为其后嗣。但是,他好像不喜欢高久的姓,自称高隆古。

隆古融合南画与大和画,独树一帜,独树一帜。之后,在关东周边周游,画了很多作品,安政5年(1858年)从下总佐原回来的路上患上霍乱病死。行年四十八岁。法名“兴道隆古居士”。与高久霭厓同葬在谷中天龙院。

弟子有淡岛椿岳、小出东渊等。

作品[編集]

作品名技法形状・員数寸法(縦x横cm)所有者年代落款・印章備考
大内春秋之図絹本著色1幅栃木県立博物館栃木県指定文化財
蘭亭曲水図絹本著色1幅栃木県立博物館小室翠雲旧蔵。
西園雅集図絹本著色1幅栃木県立博物館
春景群鶴図屏風紙本金地著色六曲一双栃木県立博物館40代の作
伊勢物語西行物語図屏風白河市歴史民俗資料館
楠公之図白河市歴史民俗資料館
正住院障壁画紙本墨画・著色襖60面・壁貼付3面の計63面正住院 (常滑市)本堂1837年(天保8年)蘭亭曲水図襖に款記「天保八秊歳次鄭酉春三月上巳後十日落成 梅華秦隆古」/「隆古」「雪庵居士」印愛知県指定文化財。内訳は蘭亭曲水図襖8面、秋景山水図襖4面、冬景山水図襖4面、山水図壁貼付3面、龍図襖4面、獅子図襖4面、虎図襖4面、葡萄に栗鼠図襖4面、蝦蟇鉄拐図襖4面、群馬図襖4面、連池図襖4面、武蔵野図襖8面、枯木叭々鳥図襖4面、白鷺図襖4面。画題は、山水・人物・花鳥・走獣と漢画の画題を網羅し、武蔵野図というやまと絵画題を加えるなど、隆古の画技をお披露目しているかのようである。一部に大画面を制御しきれていない未熟な面も見られるが、のちにやまと絵に傾倒していく転換点の作品であり、大量の襖絵が当初の状態をほぼ保っている点が貴重[1]
魁之画たてやまフィールドミュージアム
盲人渡橋之画たてやまフィールドミュージアム1847年(弘化4年)
頼朝富士の巻狩の図紙本著色六曲一双個人栃木県指定文化財
人物図本因坊秀策囲碁記念館
歌仙紙本淡彩1幅東京芸術大学大学美術館
秋景山水図東京芸術大学大学美術館
雨中大井川・雪中箱根紙本著色双幅163.6×60.5(各)島田市博物館1856年(安政3年)[2][3]
月下過雁之図田原市博物館
重盛諌言図福島県立博物館