横山清晖(1792年-1864年9月17日),名清晖或晖三,字成文,通称主马·详介,号为霞城、吾岳、奇文。是活跃在日本江户时代末期的四条派画师。是松村景文的弟子,与中岛来章、岸连山、盐川文麟等,被评为幕府末期画坛的“平安四名家”。
经历
京都出身。第一次接受了江村春甫的开导,接着又向吴春、松村景文学习。在景文死后的誓约书中,第一个签名被认为是景文的第一个弟子。文政3年(1820年)花道的家元池坊专定,与景文一起担任自己选择的100瓶鲜花画集《插花百规》的插画。在文政度的东本愿寺重建中担任白书院的杉户绘,文政12年(1829年)担任只园祭长刀花车的屋檐下绘《百鸟图》的彩画。或许是因为这样的工作得到了认可,他成为青莲院尊超入道亲王的御用画师。
幕府末期被誉为平安四大名家,作为总括画坛的角色,他在各种书画展览馆中肩负着主办者的重责。《平安人物志》从文政13年(1830年)到嘉永5年(1852年)版登场。地址是六角室町东、新町四条北。生前的评价非常高,嘉永3年(1850年)的《帝京画家给银位定》中970两的《大上吉》、《平安画家评价记》中980两的《极上吉》和岸岱、狩野永岳之后排在第3位,记载着“四条派的总亲玉”。只是,晚年的作品中衰退引人注目。享年73岁。戒名是莲花院清辉日妙居士。根据《京都名家坟录》记载,墓场分为东山区的安养寺和左京区的本妙寺、中京区的天性寺三处。安养寺的墓是一周年忌日弟子村濑双石和加纳黄文建立的。
弟子有横山春晖、村濑双石、冈岛清旷、加纳黄文、林耕云、有山旭峰、岛田雪谷、奥村石兰等。
代表作
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・落款 | 備考 |
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Figures in Landscape[1] | 絹本著色 | 1幅 | 103.7×51.0 | シアトル美術館 | 1834年(天保5年) | ||
大江山鬼退治図屏風 | 紙本著色 | 六曲一双 | 155.3×351.0(各) | 奈良県立美術館 | 1839年(天保10年) | 款記 右隻「天保己亥初夏擬月渓翁所画 清暉」・左隻「月渓翁所画擬清暉」/両隻に「清暉之印」白文方印・「霞城」朱文方印 | 通り本作と同じ図柄の呉春屏風「大江山鬼賊退治図」が、京都国立博物館に伝存している。 |
秋山訪隠図[2] | 絹本墨画淡彩 | 1幅 | 106.4×41.3 | ボストン美術館 | 1841年(天保12年) | ||
四季花鳥図屏風 | 紙本金地著色 | 六曲一双 | 167×377(各) | 個人 | 1849年(嘉永2年)[3] | ||
菊白頬鳥図(常磐山舞台障子腰襖) | 紙本金地著色 | 襖3面 | 112.9×111.2 | 呉服町常磐山 | 1852年(嘉永2年) | 滋賀県指定文化財。本作品には清暉自筆の証文が別に現存しており(長浜城歴史博物館蔵)、5両判金1枚が筆料で、別に菓子代として銅銭100疋(2500文)が支払われており、曳山の襖絵の値段が判明する珍しい[4]。 | |
蘭亭曲水・舟遊図屏風 | 六曲一双 | 個人 | 1856年(安政3年) | ||||
三十六歌仙図巻[5] | 紙本著色 | 1巻 | 37.5×899.5 | 埼玉県立歴史と民俗の博物館[6] | 呉春の同名絵巻を清暉が模写したもの。 | ||
四暢図 | 紙本淡彩 | 六曲一隻 | 三井寺 | ||||
孔雀牡丹図 | 絹本著色 | 1幅 | 113.8×56.2 | 滋賀県立琵琶湖文化館 | 款記「清暉」[7] | ||
東方朔図 | 紙本墨画淡彩 | 1幅 | 170.4×91.0 | 京都市学校歴史博物館 | 款記「倣呉月渓翁筆意/黄清暉」/「清暉」朱文楕円印 | ||
十二ヶ月図 | 絹本着色 | 六曲一双押絵貼 | 129.4×50.5(各) | 個人 | 款記「清暉」[8] | ||
夏秋草図屏風 | 紙本著色 | 六曲一双 | 105.2×234.1 | 個人[9] | |||
Genre Scenes of the Seventh to Twelfth Lunar Months | 絹本著色 | 六曲一隻 | 175.90×375.92 | ロサンゼルス・カウンティ美術館 | |||
Rocks and Stream | 絹本墨画著色 | 1幅 | 137.16×66.04 | ミネアポリス美術館 | 款記「清暉」 | ||
Scholar’s retreat in the mountains | 紙本墨画淡彩 | 1幅 | 131.2×29.2 | 大英博物館 |